「手ぶらスタイル」と手帳の話

僕は手帳を使わない。


スケジュール管理なんておおげさなものはしていないに等しく、スケジュールの覚え書きはiPhoneのカレンダーアプリに書き込んでおく。


それで済んでしまう。


iPhoneが壊れたら読めなくなってしまうけど、読めないほど壊れる前に買い換えてきたので、今のところ致命的に困ったことはない。(端末の破損が命に関わるという風刺にとらえてもらっても良い)


このスタイルのいいところは、手帳を持ち歩かなくて良いことである。


僕が出歩くときのスタイルは大きく分けて2通りある。「手ぶら」と「それ以外」である。


「手ぶら」スタイルは、見た目はまさしく手ぶらである。実際には、ジーンズのポケットに財布とiPhoneと家の鍵1本(キーホルダーなしの剥き出し)とギターピック(指先でつまめるちいさなプラスチック片)を入れている。


「それ以外」スタイルの主流は、リュックか肩掛けかばんだ。中身は概ね以下の通り。

・文庫本

・ポーチ(内訳:歯ブラシ、ワセリン、イヤホン、iPhone予備バッテリー、使い捨てマスク)

・五線ノート

・筆記具

・スケッチブック(A4以下)

・レジ袋に入った薄手のタオル

・ウィンドブレーカー

・ノートPC


これに「手ぶら」スタイル時の持ち物が加わる。


色々な物が含まれているが、ほとんどが無駄だ。登場頻度が低く、持ち歩かなくてよいものばかりである。使用頻度上位は歯ブラシ、ワセリン、文庫本である。


手帳の話に戻ろう。


僕にも手帳を使った経験がある。


手帳をやめてしまった理由は、「手ぶらスタイル」の時にも持っていたいが、その役割をiPhoneに統一してしまった方がメリットが大きい、という点だった。


ここでいうメリットとは、つまり物理的に手帳を持ち歩かなくてよい、という点である。


僕の「手ぶらスタイル」に手帳が加わると、ジーパンのポケットに財布とiPhoneと手帳の3つが入ることになる。手帳のサイズはジーパンのポケットに入るものもあるが、まず間違いなく、つっぱる。表紙と紙の束の材質上、身体にフィットせず、立ったり座ったりする度に気にかかる。そのまま座り続けたら身体を圧迫するので、座ったら手帳は机の上などに出して置いておくことになる。


財布とiPhoneも座ったときはポケットから出した方が快適だけれど、電車の移動などで素早く立ったり座ったりするとか、机が無い、といったときは出さなくてもさほど気にならない。僕があまりタイトに密着するタイプのジーパンをはいていないことも、このポケットのゆとりに関係している。


「手ぶらスタイル」のときに、持ち歩くものが概ね2つ(財布、iPhone)か、3つ(+手帳)かの違いは大きい。


手帳に、ペンを使って自由に書き込めることの価値はある。色んなページがあって、使い分けもできるのだろう。字でも絵でもない、記号でもない、枠にとらわれない線も書ける。ページを折ったり破ったりもできる。そのモノ(手帳)が物理的に可能にする使い方は多岐にわたる。


純粋に情報をストックしたり、共有したりする機能は、かなりの部分が電子の携帯端末によって置き換えることができてしまう。


そんな中で、手帳を持ち歩く意味として大きいのではないかと思うのは、心の問題である。


お気に入りのデザイン、見た目、手触りの一冊を持ち歩き、仕事の時も遊びの時も何かと目に触れ、手で触れ、眺め、書き込みを繰り返す。そのたびに心がちょっと豊かになれる、そんな気分になれることを想像する。その価値を認めている人が世の中にたくさんいて、お店でもあくさんの手帳が売られ、お客さんに買われていくのだろう。


こんなことを手帳を使ってない僕がいうのはおかしいだろうか。


今のところ、僕は手帳をふたたび導入する予定もない。


「手ぶらスタイル」の時の持ち物、財布とiPhoneという内容もこれでいいと思っている。


ところで、僕の妻は手帳ユーザーである。


僕は妻の手帳に落書きするのが好きだ。


必ず許可をとってからするが、書いてしまった落書きの内容について怒られるというか、嘆かれることがたまにある。


「ねぇ、ちょっと


といった具合に。


僕も、自分で手帳を買った方が良いかもしれない。