夏休み最後の数日間

損得にとらわれず自由に発言する雑談。


何かの解決や目的の達成のための会議。


ふたつの対比が、仕事をする平日と、自由に過ごす休日の存在に重なる。


お盆休みをとり終えた人が多いのではないだろうか。


そんな時期である。


家族や親族と集まって、長い時間を過ごした人も多いと思う。


学校に通っている年齢の子供たちはこれからの数日間、親が仕事に戻って自分だけの休みが続き、831日を迎えて慌てて宿題をやるという様子が目に浮かぶ。


自由に過ごす休日は、雑談にも似ている。


何かの達成のために向かって、なるべく一直線に動かなければならない理由もない。


道を外れるとか、サボるといったこともない。


本当に自由な休日ならば、道もないし課されるものもないはずである。


そう、仕事や学業といったものになると、何かと僕らは一直線にそれに向かわねばならない、みたいに思い込みがちである。


目的の達成のためにとるべき行動、取り組む姿のイメージが固いというか。


机に向かって集中した様子を見せることが、真に目的を達成するために必要なのではない。


たまたま仕事や勉強というものの性質上、机に向かってやれることが多いというだけである。


わき道に逸れるなんて言い方をするが、わき道を通ることで、本筋の性格が見えてくることもあれば、そもそも本筋だと思い込んでいた道が筋違いだったり、実は目的に直結しない行き止まりだったなんてことに気付いたりもする。


勉強とは机に向かうことだ、みたいな「本筋のイメージ」を持つことは自由だけれど、それを強いてしまうことで周りの人の自由な発想、より個人が能力を発揮できる独自のやり方を妨げるようなことは、望ましいこととはいえない。


とっくに中学生でも高校生でもなくなった僕の中にも、夏休み最後の数日間を過ごす自分がいる。


雑談するみたいに自由に過ごす休日を、心の中に持つ平日。