アンプリファーと入力ソース

からだのあちこちが痛いといった他人の身の上話はよくある。


そういった話をただ嘆かれても、聞かされている方は退屈かもしれない。


僕の友人に、自身の尿管結石の話を語って聞かせてくれた人がいる。


それはもうものすごく、尋常じゃないくらい痛いらしい。


僕は、人間の身体の内側の話に弱い。


弱いというのは、惚れやすいとかいう意味ではない。


まいってしまう、というか、滅入ってしまうというか。


例えば、採血をするとき、針の付いた管の中に自分の血液が流れ込むさまを見て、失神したことが2度ある。


大学時代、人間の発声のしくみを映像で学ぶ授業において、人間の声帯部がなまめかしくうねる様を鑑賞して失神、教室の椅子から崩れ落ち保健室に運ばれることも1度。


その尿管結石の話を友人に披露してもらった時も、話をリアルに、臨場感タップリに取り込んで、痛みの立体感を想像し、これはイカンと倒れる前に自ら寝室へと撤退した。このときは幸いにも自宅に友人を招いてのささやかな宴席だった。


同質なものとして並列するわけではないが、フィクションや創作物における暴力表現、流血シーンといったものはいたって平気だ。


特に気分を害さずに(描写のセンスのなさに辟易することはあるが)観賞することができる。


10代の頃さんざんプレイした、ゾンビのうごめく街を銃火器を駆使して切り抜けるゲームのパッケージの表紙に、!(びっくり)マークとともに「このゲームには暴力表現が含まれます」といった旨の表記がされていたことを思い出す。


その作品が教育的に影響がある可能性を示すためにつけられたマークだと思われるが、個人的にはあのマーク自体が最も下品でセンスのないものに思えてならない。(当時は気にしたことなんか一度もなかったし、今もたまたま思い出しただけだが)


情報開示の公正性を重んじたつもりなのだろうか。


僕はたばこを吸わないが、肺がんの罹患部の写真をあしらったたばこのパッケージなんかを見たことがある。


ゾンビゲームとは違ったカテゴリのものではあるが、なんとなく似たような空気が漂うさまを僕は感じてしまう。


なにもないところに無限の立体を構築するちからが、センスであり、想像力である。それを生活の中に実現するテクニックがある。


自身の尿管結石の体験の臨場感を、あますことなく伝える友人の話術。


受け取りすぎて失神しかかる僕。


話し手も聞き手も、ときにソースとなるものを増幅器にかけて発したり受けたりする。


アンプリファーにかけて鳴らしたギターの音に出会ったときのシビレる感じときたら、ない。


ちなみに尿管結石の彼も、僕も、バンドマンのはしくれだ。


バンドマンは増幅器が好きなのだ。