含まれる〜長雨と手持ち花火〜

極端というのは負担がかかる。


偏ったバランスは体調不良を招いたりする。


食事に限った話ではない。


雨も極端に降ると、色んなところに不具合が出る。


道路に水が溢れもするし、まったく違う角度の話をすれば、人々のストレスも高まるだろう。


人間の生活規模で見れば、こう幾日も幾日も雨が降り続けるのは異常なことのようにも思えるが、地球のごく局所的な場所で、ごく短い間に起こっていることに過ぎない。


渦中にいる人たちにはとてもそうは思えないだろうけど、地球を観察する部外者がいたら、彼らの目にはそう映るかもしれない。



雨が降り続く地方が目立つこの頃だけれど、たまたま昨日僕が過ごした場所では、おおむね1日曇りにとどまっていた。夏らしい大きな雲が猛々しく空を覆って、ところどころに空いた風穴から澄んだ青色が覗いていた。


親族が集まり、食事を共にした。七輪を引っ張り出して、肉やら野菜やら魚やらを焼いて食べる慣わしが我が家3世代にはある。年に一度の夏の話である。そうそう全員揃って集まれないから、と口癖のように僕の母は言う。


めぼしい焼きものが終わって、七輪の上に乗せた南部鉄器に湯を沸かし、胃腸の活動を妨げないようにか、自然とマッタリした雰囲気になってくる頃に始まるのが、手持ち花火である。


僕の姪はこれが楽しみだったみたいで、彼女が嬉々としてあげる声が屋内にいた僕まで届いた。


いつの頃からか、僕は手持ち花火があまり好きでなくなった。(広い場所で行われ、みんなで見上げる打ち上げ花火大会も、混雑などの付随するもろもろの煩わしさによって、あまり好印象を抱いていないこの頃であるが)


手持ち花火の嫌なところを思いつくままに挙げてみる。


・煙い

・臭い

・まぶしい

・短い(すぐ燃え尽きる)

・ゴミが出る

・ゴミの処理、消火、後片付けが煩わしい

・一連の行為で汚れる可能性が高い

・虫が寄る。蛾、蚊。気付くと身体を蟻が登っている。

・悪ふざけを招きやすく、怪我や不快を受ける危険が高い。


ざっと思いつくものをあまり深く考えずに並べてみた。


お金を出して花火を買って、これらの嫌なところを覆すほどの魅力を感じられないのが今の僕である。


喜ぶ姪の様子から、子供の時の自分を思い出してみる。


結構(かなり)、花火が好きで喜んでやっていたような記憶がある。近々、母に確認してみたい。


子供のころには、上に挙げたような嫌なところが、嫌でなかったに違いない。お金も自分では出していなかった。


嫌どころか、それらが楽しくてしょうがなかったのだろう。そういう目で、上記のリストをもう一度見てみる。


なるほど、気付くことがひとつある。


その場の楽しみだけでは済まないことを、今の僕は嫌っていることがわかる。


煙いのも臭いのも汚いのも虫がたかるのも、全部その瞬間だけはそんなに嫌なものでもない。


むしろそういった知覚刺激は楽しいものだろう。


子供はそれらを純粋に、その場だけのことを楽しめる。


今の僕が嫌なのは、終わったあとに残るもろもろの影響だ。服や身体が汚れ、臭いがつき、そのままにしておくわけにいかないから洗ったりする。きれいに落ちればまだいいが、服の汚れが残る場合もある。もう着られないほどの汚れや傷みがあれば、買い換えなければならない。


虫さされや悪ふざけによる怪我などは、小さいものでも何日か、悪ければ1週間も2週間も痛かったり不快なままである。


後片付けやゴミの処理も、その場を綺麗にすることに始まり、分別したりひとまとめにした物体が、最低限自分の居住空間から消え去るまで、その存在によりネガティヴな効力を発揮し続ける。


これら、花火の火が消えたあとに付随するものの方が、今の僕にとって圧倒的に大きい。


それらすべて、子供には知ったこっちゃないようなことばかりだ。


花火をやるという一連の行為は、火をつけた瞬間から火が消える瞬間までではない。その前後にあるものの方が長く、比重が大きい。


手持ち花火に限らず、何事もそうである。


今、静かに座ってこれを書いている状態の僕も、何事かの一連の行為の中に含まれているといえる。