「自」と「他」の四次元毎日

あらゆる出来事は、どんなに遠いように思えることでも突きつめて言えば、「自分ごと」である。


直接は無関係に思えても、掘って掘って深堀りを続けるうちに、必ず根底ではつながっている。


無関係に思える理由は、人間1世代が生まれて死ぬまでの間につながることはないだろう、という距離的な隔たりに起因する楽観だったり、短絡的、短期的な無知、無関心によるものであるように思う。


友達の身に起きたことだと、お知り合いでない人や場所に起きることよりも高い関心を持てる人が多いと思う。


この出来事によってあの人が喜ぶだろうな、悲しむだろうな、なんて、その人の顔や姿、周りの様子を思い浮かべることで、だいぶ現実味のあるイメージが持てるだろう。


今は知り合っていないだけで、将来の友達となりうる人が世界のあちらこちらで今日も過ごしている。



まだ知らないものを思い浮かべるのは難しい。


すでに知っているものの中から、予想可能な範囲で似ていると思われるイメージを引っ張り出すことくらいしかできない。あいまいで、シュールで現実味に欠けたものになりがちだ。


この能力、まだ知らないものをより精確に思い描く能力を手伝うものは、やはり正確な知識だろう。


知ってるものごとは、まだ知らないものごとを想像して引っ張り出す行為を助ける。


より「出合い」を引き寄せる。


知ろうとすることは、自分や友達を守ることにもつながる。


知って、出合って、「自分ごと」が広がる。


「自」と「他」の境界線は動きもするし、その幅も変化する。


点を囲む線は面になり、立体にもなる。


立体の時間による変化を、観測し続ける毎日。