なまけているようなときや、集中力がなくなってきたときほど、真剣な顔を装ってしまう。
非生産的なことをしている姿を他人に見られたくないと思うのはなぜだろう。
朝から晩まで毎日、なにも生み出さず、はたらかず、なんてことはない。休みの日だったり、ある程度自由に過ごすことが許されるようなときの中で、娯楽に興じることがうしろめたく感じられてしまうときがある。
娯楽に興じること自体は何も悪いことではない。働いてもいて、やるべきことはやっているなら良いかと思う。ひっかかるのはその「やるべきこと」なのだろう。自分には、まだ済んでいない、やるべきことがある。そういう意識が、ちょっとした娯楽の時間をうしろめたくさせるのかもしれない。特に、定時で働いている人は「何時間働いたか」ではなく、「なにを成しえたか」を意識して自覚した方がいい。そのほうが「やるべきことのひっかかり」が少なくて済むかもしれない。
集中力が切れたり、疲れが溜まってきたようなとき、たとえやるべきことが済んでいなくても、娯楽的なことが気になり出したりすることもあるかと思う。ふたたび正面からやるべきことに臨むため、自己調整といえる範囲で娯楽を楽しむ瞬間も必要だろう。
そう納得するのはいいが、「本当に自己調整に必要な範囲」を見誤ってはいけない。現代では、あらゆる種類の「お楽しみ」がスマートフォンひとつに詰まっていたりするが、特に用事を思いついたわけでもないときに、ついついスマホを手にとって立ち上げてしまうような癖は、一種の生活習慣病のようにも思える。酒やたばこのように、依存性もある。アルコールやニコチンともまた違うが、「つながり」や「情報」といったものを求め、行動させるような脳内物質を自家生成しているのかもしれない。
習慣を変えるのも、根本的な環境から変えることが有効といえる。
都市計画といったような大きな規模の事業を動かすのは、政治や行政機関の先導が必要かもしれない。
自分という「個」を動かす政治なら、いつでもやり始められるはず。
さて、どんな自分に投票しようか。