重複色眼鏡合戦

食べ物にしてもなんにしても、お商売として提供されるものはいろんな文句(キャッチコピー)を使ってアピールされる。

「世界一うまい〇〇」なんてのはもう多すぎて、同率一位がかさばってピラミッドが崩壊し、カクテルグラスか、ビスかスクリューねじか、はたまたこけしを横から見たような、頭の大きなピラミッドになってしまう。

「世界一」がありふれすぎたことに対するカウンターなのか、変化球も派生する。

「世界一まずい」をうたったラーメン屋というのをテレビか何かで見た覚えがある。まずくても文句は言えない。カロリーとみなして摂取するしかない。

「世界で2番目にうまい」というメロンパン屋も僕のよく行く街にあった。どんな味か試す前に潰れてしまった。いまも他の街に行けばあるかもしれない。なにゆえ2番目?

居酒屋か小料理屋みたいなとこで、同じく「2番目」をうたった店主が「世界一は母親の料理」といった旨を述べるのをどこかで見たような覚えもある。なにか絶対的なものの存在をにおわすのが「2番目系」なのかもしれない。

売るための文言、キャッチコピーといったものを考えることを専門とする人もいるくらいだから、深掘りするとおもしろい。

名前とははなはだ、一方的に与えられるものである。「世界一うまい」なんて枕詞をしょわされて店が潰れでもした日には、商品の生命も同時についえる。

本来、他人からの評価の表現であるものを、評価される前から作り手によってうたわれると違和感がある。

うまいかどうか、世界一かどうかは受け手がそれぞれ勝手に決めるものである。「事実としての世界一」とは次元の違う話だ。

そこにあるのは、1番目も2番目もない、はだかんぼうのメロンパンである。

過剰な先入観にだけは、いつも気をつけなければならない。売ろうとする意思を発端とするものは変幻自在に化けて潜み込み、純白のものが青にも赤にも見える色眼鏡をあの手この手でかけさせてくる。

色眼鏡をかけさせて見せた色付けを、もとに戻すための眼鏡を売る商売なんてのも出てくる。

つくづく商売とは、生き永らえるための手段であり、生きることそのものなのだなぁとおもう。

自分が命の危険にさらされるなら、誰かを蹴落としたり騙したりしてでも、自分の命を守ろうとするのは本能的なことだろう。

人間の活動は、とうの昔からすでに本能から離れたところに及んでいる。

というか、集団を「一個の生命」とみなすような考えだろうか。

自分、他人、種族をこえて、地球や宇宙を一個の生命だとおもえば、やはり個を保とうとする方に向いている。そのままを保とうとする、そのままであろうとする。ここにも慣性の法則があるのだろうか。