蚕の回顧

「昔はよかった」という聞き覚えのあるような嘆き、せりふ。そう思っている人はどれくらいいるのだろう。


今より不便だったことがたくさんあっただろうし、不安だったこともたくさんあっただろう。

衛生環境や医療の未発達で、いまなら助かった病で亡くなった人もたくさんいただろう。


70数年前に敗戦国となり、直接的な戦争はいまのこの国にはない。


いまとは違う不安がたくさんあったであろうことは想像するけれど、いまはいまで違った種類の不安がたくさんあるのだろうとも思う。


爆弾や機銃掃射に怯えることはないけれど、命にすぐさま関わることじゃなくても、不安を強いられる人はいつもいる。自殺者が報じられるたびに、「どこかに逃げ場はなかったのか」といった嘆きがあがるが、死を選んだ瞬間のその人にとっては、そうするしかない、それが最上だとしか思えなかったのかもしれない。


「生き続けるかどうか」さえ自分で選べる社会は幸福だろうか。能動的に選んでいるなんてのはまぼろしで、選ばされているのではなかろうか。人が集まって形成される「社会」の前で、個人はどこまで自由になれるだろう。どこまで個人が自由な社会がつくれるだろう。


「昔はよかった」も「いまがいちばん」も、思うのは自由だ。どうせなら、今まで歩いてきた道のりのどこをとっても、よかったといえることを見いだせる方がいい。個人的にはそう思う。いつをとっても、よかったといえるように生きればいい。