カレンダー依存

記念日を迎えると、なんとなしにも感慨深い。

あれから〇〇年経ったかぁなんて思う。

だからなんだということもない。

時間的な距離の目安である。

具体的な数字にさして意味があるわけではないけど、これくらいの時間が経った結果、これくらい変わった、もしくは変わっていないということを知る尺度にはなる。

よく〇〇周年とうたったキャンペーンを見かけるけれど、きりのよい数字でやりたがるのはなぜだろう。

長く続いたことを喜びたいなら、たとえば10周年より11周年のほうがおめでたいじゃないか。17年とか19年とかの素数もなぜかタマらないものがある。セミの成虫化する周期みたいだ。

なんでセミが素数年で成虫化するのか説明された雑学本か何かを読んだ記憶があるが、詳しくは忘れてしまった。繁殖とかに関わるなんらかの、種が生き残るための理由があったように思う。

これまでに関わった誰かの誕生日とかも「ゴロ(語呂)」が良いとけっこう覚えていたりする。納豆(7/10)の日とかセブンイレブン(7/11)の日とか、俳句(8/19)の日とかいい夫婦(11/22)の日とかいい双子(11/25)の日とかである。ちなみに豆腐の日(10/2)は嫁さんの誕生日である。結婚記念日も兼ねている。覚えやすいようにと誕生日に合わせて設定したように思うが、覚えていられないくらいならば日付そのものにそれほど意味があるようにも思えない。時計もカレンダーも一切なかったら、人々が記念日をどれくらい察知するかを試してみたい。それ以前に重大な問題がたくさん立つ気がするので、きっと記念日どころではなくなるだろう。(もしくは、様々な重大な問題が解決されるかも?)

寝て起きてを繰り返し、誰もが時間の経過の中にいる。暦(こよみ)というスケール、ものさしがあるから、1年経ったねと共有することが出来るけど、その1年間がどれくらいの長さに感じられたかは人によって様々だろう。幼い子どもの過ごす1年と、大人の過ごす1年の長さが違うように感じるのは、人生全体の中での1年間の占める割合が違うからだという解釈がある。当たり前のように思い込みがちなことの中に、どれだけの驚きを見い出すかとか、ルーティン化してしまう生活の中にいかに疑問や気付きを掘り出すかによっても、1年の長さの実感は違ってくるだろう。長けりゃいいってもんでもないし、無為に過ごしたと後悔するのももったいない。こうしているあいだにもキコキコと時計は進む。