『職業「僕」です』

僕はビールが好きです。

でも厳密にいうと、ビールならなんでも好きというわけじゃない。

好みの商品が、ビールというくくりのなかにいくつかあるだけだったりします。

泡盛にずっと興味関心がなかったけれど、たまたまきっかけがあって、自分で選びとったひとつの銘柄がすごくおいしかった。

それから僕は泡盛を好きになりました。

でもやっぱり泡盛ならなんでも好きなんじゃなくて、また別の機会に適当に選びとって飲んだものは、先のエピソードの時のもののような感動はなかった。

泡盛というくくりの中にたまたまあった、その商品が僕は好きなんです。

これは芸術などの作品においてもいえることのように思います。

音楽だとか美術だとか書道だとか、おおきなくくりがあって、さらにそのなかで細かいくくりがもうけられて分類されていたりしますが、本当に優れたものは、ひとつの作品そのものでしかない。ロックの名曲とか印象派の名画とか、書道を僕は知らないけれどやはり派閥、流派やジャンル分けといったものがあり、この書は何々というカテゴリにおける傑作である、なんて能書きされることがあるのかもしれないけれど、最後にはその作品はその作品そのものでしかない、と。僕にはそう思えるんです。

自分の曲はロックでもポップでもない、自分(そのバンドの名前)そのものです!とか、自分の職業は俳優ではなく「自分(その人の名前)」です!といった趣旨の発言をしている俳優やミュージシャンをテレビで見たことがあって、自分でそうやって言っている人を見ると「ハイハイ」と冷ややかな気持ちで観てしまうのを自覚しながらも、根底的なところでは僕は賛成なのです。

芸術に通ずるものの中にも娯楽性があって、食べものや飲みもののように消費される側面が少なからずあるから、長きに渡って残ってきた作品と、今日生まれてくる作品を同列に語ることはできないと思います。

しかしそれでもバッハはバッハだし、北斎は北斎だし、まだ存じ上げない芸術家が数多おります。

本当にすぐれた作品は、受け手を選ばない。

大自然みたいなもののように思います。

その人が求めさえすれば、いつだって1対1で対話させてくれる。

作者の命が宿るのです。