19日 8月 2018
毎日、朝にこの文章を書いています。家の外の公園を眺めながらそれをしているのですが、犬の散歩をする人をよく見ます。見たことのある顔ぶれが、毎朝通るのです。 たとえ飼い主が「今日は眠くてつらい」「行きたくない」などと思うことがあっても、犬のために必ず行くんだろうなぁと想像します。僕は、犬を飼ったことがありません。...
18日 8月 2018
スマートフォンのメモアプリに、気付いたことや考えたことを書き溜めています。以前までだったら、ツイッターなどですぐにつぶやいてしまっていたようなことも、いったんメモに保管するようにしました。この取り組みを始めてみたら、必然的にツイートの頻度は下がりました。...
17日 8月 2018
・空の低さのこと 夏は雲の季節だと思いました。いろんな形、色をした雲が混沌とひとつの空にひしめいています。秋の空は「高い」と表現したくなりますが、夏の空は「近い」です。いつもは遠いものとも話ができる気がするのは、そのせいかもしれません。 ・ツノの曲がったカブトムシ...
16日 8月 2018
よく本を読みます。いろんな人が「考えたこと」がいろんな風に書かれていて、おもしろいのです。 自分に「考え」なんてものがあるのかといったら、よくわかりません。自分の話すことや書くことなんでもかんでも、本で読んだりネットで見たりしたことのツギハギだらけな気もします。...
15日 8月 2018
おそらく「右翼」と呼ばれるであろう人たちが走らせる黒い車が、爆音で「君が代」をかけながら街道の列の中にいたのが見えました。通勤途中だった僕は、視界の端っこにかれらを認めながら、そのまま街道とわかれて職場に向かう道を行きました。...
14日 8月 2018
おおかれすくなかれ、さもネットの世界がこの世のすべてかのように幻惑される瞬間が、誰しもにあるのではないかと思います。一方で、ネットは手段(媒体)のひとつであり、それに頼らない生き方はいくらでもあるでしょう。無理に排除しようとすると生きづらいかもしれません。てきとうに付き合って、てきとうに利用して、てきとうに利用されるくらいの塩梅で納得して生きているのがわたしです。そういう人は、案外多いのではないでしょうか。 週刊誌というものを買ったことがありません。(習慣漫画誌ならあります)駅のごみ箱や、列車内の網棚に残されている場面をよく見かけます。それだけ、紙に印刷する媒体としては早いスピードで消費されるものなのでしょう。嘘や邪推、不確実な情報が多いイメージで、あまり良く思っていませんでした。それでも、膨大な数の人間がかかわって毎週発行されているのですから、特にぼくのような疑り深くて保守的なスタンスの持ち主には、刺激や考えるタネ、自分の偏見をくつがえす発見や気づきがたくさんころがっている媒体なのかもしれません。週刊誌を買ったことがなかったという昨日までの自分と距離を置き、眺めるために、いっぺん買ってみるのもいいかもしれません。 雑多な内容の雑誌が多いな、なんて思います。「雑」誌なのだからあたりまえといえばそうなのですが、商業的なアピールが多く、浅い内容に終始していて、めくって見てもあまり面白くないなぁと、ふといくつかの雑誌にふれて思ったことがあるのです。 専門的なテーマを持った雑誌も当然あって、そのひとつのテーマを雑多な角度から取り上げていて、面白いと思えるものもあります。「雑」誌といえども、テーマといいますか信念めいた「裏テーマ」みたいなものがひとつあった方が良いのかもしれません。ぼくにその信念を感じ取る力が足りないのか、実際に信念のない雑誌が多いのかどうかは知りません。どちらの可能性も捨てずに、信念を読み取る自分の力を磨きつつ、信念のない発信を疑うことも同時に続けていきたいと思います。 ネット上には、多く検索されることの争奪戦に勝つためのつくりを持ったサイトが増えたような気がします。あるキーワードを検索すれば、誰が検索してもそればかりが出てくるといった状況です。その決まったサイトひとつを読んで、その検索したキーワードについて知ったような気になりがちですが、そのことにもっと疑いを持つべきなのかもしれません。ネット上でのものの調べ方というのが、調べたいキーワードを入れる、検索ボタンを押す、トップ付近に表示されるサイトだけを読む……というルーティンに陥りがちです。それって、なんて自分の世界を狭めていることでしょう。 雑多な視点、雑多な方法を一人ひとりが持っていて良いと思います。切り口が雑多だとしても、信念めいたものがあれば、一人の人間が浮き彫りになるでしょう。ありもしない群衆性に惑わされがちなご時世にこそ、一人ひとりの人間をきちんと見つめたいと思います。
13日 8月 2018
今年の3月に、母方の祖母が亡くなりました。お盆だからといって何をするわけでもない我が家ですが、親族であつまって、少し空気のいい場所で数日を過ごすのがゆるい慣習になっています。 去年の今頃にも、そんなような過ごし方をしました。その時と今年は、何がちがうでしょうか。 ーーーー ①姪の1人が参加していない...
12日 8月 2018
ぼく自身が頼みごとを滅多にしないせいか、ぼくに何かを頼んでくる人もあまり多くはありません。そのせいもあってか、頼まれたことは妥当かどうか選ぶ余裕もあるし、妥当だと思って引き受けたことには納得して取り組みます。...
11日 8月 2018
変わっていないかのように見られていそうで、実は細かいアップデートや改良がほどこされて、いまの姿かたちになっている……というのが、長く残っているものやロングセラー商品の共通点なんじゃないかと疑っております。...
10日 8月 2018
酒の瓶をあつめたことがありました。酒といっても、ビール瓶のみです。ビール瓶といってもなんでも良いわけではなくて、気に入った地ビールの瓶のみです。棚など家財の上に置いていましたが、だんだん増えて妻が捨てたそうな雰囲気を暗に漂わせはじめたので、一番気に入っているアメリカのアンカー社のものを数本残して、全部捨てました。アンカー社のものは、ずんぐりとした瓶の形と、楕円形のラベルと、ラベルのイラストが可愛いです。 自分をコレクターだとは思いませんが、コレクター性がないとも思いません。小さい頃、ぬいぐるみが好きでたくさん持っていた覚えがあります。けっこう中学生くらいまで好きだったような記憶もあります。そのうちの何体かは実家に残っていて、姪っ子や息子に受け継がれているようです。 小学生のころ、なぜだかコンパスが好きでした。なんの変哲もない、スーパーの文具コーナーで売っているようなものから、アウトドア専門店で売っている、何か物をズボンのベルトを通す輪に引っ掛けておけるフックのような金具(カラビナというんでしたっけ?)と一体になった、液体に浮かんだタイプのコンパスとか、いくつかの種類を持っていました。引っ越したときに捨てたのか、今どこにあるか記憶していません。 高校生くらいの頃からしばらく集めていたのか、ギターの弦のポールエンドという部分です。ギターの弦を楽器に通して引っ掛けることができるように、弦の端っこにまあるいボールベアリングのようなかたちをした小さな金具がついています。なんだかまるっこさと小ささが可愛くて、古い弦を交換して必要なくなったものをニッパーで弦から取り外し、ジャムの空き瓶に溜めていました。小さな瓶が2本ほどいっぱいになるくらい集めましたが、いつの間にか集めなくなりました。 いずれも中途半端に終わってしまっていて、この程度のたち(性質)をコレクター性と呼んでいいのかもわかりません。でもそもそもコレクションとは、なにかの役に立てるものではななさそうに思いますし、いつ終わってもべつにかまわないのではとも思います。途中で飽きて終わってしまうからといって、それが「コレクションだった」とはいわなくなるわけではないと思うのです。 集めることでなにかを学んだかといわれれば、僕の場合まったくなにもないように思えます。酒の瓶にも色んなタイプのものがあるなぁとか、じぶんはなぜこれを気に入ったんだろうかとか、分析してなにかを発見したり、気づいたりしたというようなこともありません。いえ、もっと突き詰めればあるのかもしれませんが、そんなことのために集めたのでもないのです。強いて共通点をいえば、ただなんとなく可愛くて、「近くに置いておきたい」程度に思ったから、ということくらいでしょうか。 ちなみに僕は家にたくさんの種類のスパイスやハーブをストックしていますが、これは僕の自覚としてはコレクションではありません。実際に使うからです。スパイスを特別、可愛いとも思いません。一応、妻に「捨てたいオーラ」を出された記憶もないと思っているのですが、僕がそう思っているだけかもしれません。

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