20日 8月 2019
大きな震災があったあと、有名な歌手がラジオか何かで言っていたことを思い出す。「お金がある人はお金を、ちからがあるひとはちからを、なんにもないひとは元気を出そう」といったようなことだった。歌手は、うまいこと言うなと思った。 元気ってなんだろう。ことばをばらばらにして、もとの意味を考えるのが趣味の僕は、「気になって」しまう。...
19日 8月 2019
学生の頃は「居眠り人生」でした。親に学費を払ってもらっておきながら、学校に行って眠っているなんて。ぜいたく過ぎる睡眠環境です。 高校のときは、朝の「起立」の次の記憶が一日の終わりの授業の終礼の「起立」だった、ということもありました。いったい、一日何をしていたのでしょうか(寝ていた)。...
18日 8月 2019
狙わずに得られた結果を愛しています。そんなものを愛の対象にするなんて、ちょっとへんな人かもしれませんが、そう言っておくのが近いような気がしています。 歳を重ねるほどに、あそびのハードルが高くなっていくのを感じています。思いもよらない事態がたのしくて仕方ない状態。それを、わたしはここでは「あそび」と呼びます。...
17日 8月 2019
ふだん住んでいるところよりも、標高があって、空気や水が綺麗で、森が多いところで5日間ほど過ごしてきました。それでも、日なたは相当に暑かったですし、屋内も、かつてない暑さだったように感じました。年に1〜2回ほど、そこに通っているのですが、夏でも日陰や屋内は常に涼しい地域だったので、冷房がありません。ですが、今年はじめて、冷房がここにもあれば良いのにと強く思いました。 自然の中からすこし場所を借りて、人間が居させてもらっているという感じの地域でしたが、すこし来ない間にも開発がすすんで、だいぶコンクリートが露出した部分が増えたように思いました。 木は、陰をつくります。あればあるほど、木陰がふえます。森は、陰のかたまりです。個々で存在するそれよりも、寄り集まるとその特性を増すみたいで、木がつんつるてんの土地に1本あるよりも、森がぼさっと生えているほうがよっぽど涼しいのです。おそらく、1本1本ばらばらで生えている場合の涼しさの合計値を上回るんじゃないかな?などと想像します。 木や土の多い場所には、虫も多いです。ふだん住んでいる都市に戻ってきて、快適だなと思うことは、虫がいないことです。蝉やらコガネムシやらはぼくの住む町にもいるのですが、蛾やブヨやアブ、蜂なんかが森にはもっと多いと感じます。ほかにもカメムシにカマドウマ、しゃくとり虫にウスバカゲロウ、縞々じゃない蚊やガガンボと、圧倒的に種類に富みます。都市に適応できる種は限られるのでしょうかね。人間が排除してしまったわけでもあるんです。 涼しい森を欲しがったかと思えば、虫が多すぎるのはイヤだなんてずいぶんわがままなものです。建物の出入り口ぜんぶに前室みたいなものを設えることができたら、もう少し人間の居住空間と虫のいる屋外を分けられるのかしら……究極、人間が出入りするその瞬間に虫もいっしょに出入りするわけですから、人間が出入りしなければ虫の出入りもありません。 扉1枚の内と外を人間だけがワープできたら、虫対策になると思います。それができたら、虫対策にとどめておくにはもったいないかもしれませんが。 お読みいただき、ありがとうございました。
16日 8月 2019
アイドルだって総理大臣だって、トイレに行って、出すものを出している。ひょっとしたら、トイレ以外でも出したかもしれない。そんなこと考える必要はないとおっしゃる方もあるかもしれない。確かにおっしゃるとおり、考えても考えなくても、出るものは出るだろう。...
15日 8月 2019
過失は起きる。そのとき、起きてしまったことは、過ぎる。そのときには、そうするしかなかったことかもしれない。だれも止められなかったことかもしれない。...
14日 8月 2019
商売のことを真剣に考えてやることは、誠意だと思う。商売にならない、つまりだれも喜ばないことをやるのは、エゴだ。そして、ぼくはこれをなかなか捨てきれない。 美しい言葉で言い換えて煙幕を張るならば、それは「プライド」かもしれない。 プライドは、美しい。たぶんそうだ。でも、それはほんもののプライドが美しいのだ。...
13日 8月 2019
ぼくは、生まれたまちを離れて住んだことがありません。ずっとひとつの街に住み続けているのです。同じ市内での引っ越しは2度ほどしています。一度は、両親が一戸建てを市内に建てたとき。もういちどは、じぶんが結婚したときです。...
12日 8月 2019
たまに息子(3)を叱ってしまいます。怒らないようにしていますが、「それは許せない」というポイントがじぶんにあるようです。...
11日 8月 2019
「こんなときこうする」ということのあつまりで、ほとんどの仕事はできている。たとえば窓口対応の仕事があったとして、お客が持ってくる用件にはパターンがあって、それぞれの対応法をただ実行するだけでその用件の処理は終わる。お仕事完了である。これがどんどん複雑化するくらいの話であって、なにかしらの解を導き出して示しさえすれば、仕事というものは終わる。 遊びにはそうした解がない。いや、仕事みたく、じぶんで用件を言うお客(ヴァーチャルで結構)を舞い込ませて(ひとり芝居)、ひとりで解を示すみたいなことをするのでもかまわない。そういう遊びも、本人が良ければあると思う。 研究職、みたいな仕事もあって、案外これは遊びに近いかもしれない。お金をもらう以上、最終的に、あるいは定期的に、結論あるいは経過報告のようなものを求められるのかもしれないが、なんというか、方向や目的地(仮でもいい)をじぶんで決めて大小のアクションを積み重ねていくところが、いかにも遊びっぽい。 僕の持つ遊びのイメージが、これを読んでいるあなたのそれとだいぶ違うかもしれない。いや、そうだよお前の言うこと一理あるよと言ってくれる人もあるかもしれないが。 スポーツにはゲーム性があって、これまた遊びっぽくもある。ルールがあって、それに沿う遊びもある。ルールをつくることからはじまる遊びもある。 遊び遊び言っているが、これに仕事というものが持つ性質をうまく絡ませれば(仕事としての定義を満たす必須条件のようなものをクリアすれば)、あまり両者の違いもないのかもしれない。 お読みいただき、ありがとうございました。

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