25日 6月 2019
へたに考え休むに似たり という慣用句? があるのですね。へたに考えるのは無駄であるとか、へたに考えて何もできない・実らないくらいなら、まず何か行動してみてから考えて軌道修正するなり方向転換するなりしたほうが良い結果をもたらすよ、といったようなことをさとすことば……といった感じでしょうか。...
24日 6月 2019
指示されたり命令にもとずいたりして仕事をすることがあります。工夫やアレンジの余地もなく、機械的にただこなしさえすればよい類の作業であることもありますし、工夫やアレンジ、発想することを含んだかたちでの指示や命令に端を発する作業である場合もあります。後者のほうがやっていて楽しかったり、充足感や達成感があることが多いような気がしますが、いっぽうで、前者のほうが、より競技的なたのしみといいますか、身体を動かすことの爽快さがあるかもしれません。いかに無駄なく効率よく洗練された動きを可能なだけ速くおこなうかの追求のみに全神経を集中させるかというところにその仕事の質が左右される場合、その妨げとなるものの排除が重要な意味を持つでしょう。 じぶんでやりたくてやることがあります。ほかのだれにお願いされたわけでもなく、じぶんからのお願いを叶えるために何かをおこなうことがあります。お願いをかなえたら、お願いの主である「わたし」はよろこぶでしょう。「よろこぶわたし」を実現させるために、いまのわたしが動くことがあるのです。 お願いの主はもちろんじぶんでなくともかまいません。他者である場合が多いという人も多いでしょう。仲間の多さがその数を左右するのかもしれません。 わたしの唯一の仲間は、わたしである……といったらおかしいと思う方もあるかもしれません。じぶん自身を仲間にカウントするのはおかしいでしょうと指摘する方もあるかもしれません。わたし自身、その指摘の妥当性もわかるつもりでいます。あくまで、つもりですけれど。 あなたのいうバナナと、わたしのいうバナナは、まあまあ高い精度で一致しているでしょう。では、あなたのいう友情と、わたしのいう友情だったらどうでしょう。友情の部分が、愛だったら? 愛の部分が、生きがいだったら? 生きがいの部分が、幸福たったら? 代入されるものが多様で複雑なものになるほど、一致する精度は低くなるかもしれません。それについて話し合うべきことは、尽きないほどあるでしょう。 「わたしの仲間は、わたしである」とした場合、わたしと「わたしの仲間としてのわたし」の「幸福」だとか「愛」だとかは、高い精度で一致してしまうかもしれません。その違いについて話し合うことはあまりないでしょう。それが悪いとはいいません。なのにどういうわけか、わたしと「わたしの仲間としてのわたし」だからといって、いつも阿吽の呼吸が成立するかといえば、そうでもない気がします。 どこがツボであるかとか、そのツボをどんなふうに刺激するとツボの持ち主は快感を得るかといったことを探ったり探られたりするのには、「わたし」とはべつに仲間がいるほうが良いようです。 お読みいただき、ありがとうございました。
23日 6月 2019
カレーパンの形はラグビーボールに似ていると思います。形だけじゃありません。色も似ていると思います。こんがりしたきつね色が、ボールの皮の色そっくりじゃないかと思うのです。...
22日 6月 2019
本屋さんによく行きます。お目当ての特定のタイトルを探しに行くこともあるし、そうでないときもあります。僕にとって、お目当てのタイトルが何かあることは、本屋さんに行く口実に近いです。お目当てのタイトルがあってもなくても、必ずと言っていいほど、ほかの何かおもしろそうなものが見つかるからです。そうやって、お目当てのタイトル以外の何かがレジを通って僕の家に連れて来られるという事件が頻発しています。 なかなかそうして連れてこられたものたちのはじめのページから最後のページまですべてに目を通すことはむずかしく、未読部がある本たちが溜まってしまいます。それでも少しずつ消化していくのですけれど、溜まっていくペースのほうがやや上回るのが僕のここ近年の様子です。 知らなかったこと・ものたちがパチリと目をひらき、輝きをはなってこちらを向いてならんでいて、僕は本屋さんに、そんなものたちの視線を浴びに行っているようなものです。もう消化しきれないから、輝きの持ち主と目線があわないようにいくらかセーブしなきゃ帳尻が合わないと思いながらも、そろりと半分くらいまぶたを上げてみたらば最後、僕の家にまた知らなかったもの・ことを載せた紙束が引っ越してくるわけです。 紙束だけでなく、いつも持ち歩いて手近なところに置いているスマートフォンを介して、知らなかったもの・ことがこちらに視線を向けています。新しく何かを知って、わかって、消化するための時間は限られていて、消化待ちをしているものがある現状だというのにも関わらず、割り込みを受け付けてしまう「融通利かせ屋さん」が僕の中にいるようです。ちょっとは長い休暇のひとつやふたつとればよいものを、昨日もおとといもばりばり働き続け、いつも元気に仕事をしてくれる「融通利かせ屋さん」。僕の持つ「好奇心」の良きマネージャー、とでもいったところでしょうか。 いまだ知らなかった、輝きを放つものたち。その存在を知れば知るほど、点が面になり、面が立体になって、こちらに迫ってきます。それでいろんな模様が見えてきて、この宇宙の本当の姿が見えてきて、今までよりもっとまた、おもしろくなってしまうわけですね。宇宙の膨張って、こんな感じに似てるのでしょうか。 お読みいただき、ありがとうございました。
21日 6月 2019
ぼくは金曜日、寝坊をしなかった。いつもと同じ時刻に起きた。ぼくはいつも早起きなのだ。それを早起きといっていいのか正直、迷う。いつも、迷っているのだ。いや、いつもは迷っていないけれど、たまに迷うくらいだ、といっていいのかどうか迷う程度にはよく迷う。...
20日 6月 2019
頼まれごとをするのは、悪い気はしません。じっさい、ぼくはじぶんの持つ時間の多くを、人からの頼まれごとを実現するために費やしています。仕事としてそれをやることもあるし、無償でやることもあります。...
19日 6月 2019
失敗は成功の母、ということばを聞いたことがあります。偉人のことばだったと思います。言い放ったのはどなただったかしら、エジソンさんでしたかしらね。...
18日 6月 2019
夏の炎天下で、信号機が青に変わるのをただ立って待つのはしんどいことでしょう。だからつい、点滅した青信号や、運転時の黄色信号が終わるその前にと、駆け込んでしまいがちです。...
17日 6月 2019
僕が十字架か棺桶かのように背負っているように我ながら感じてしまいがちでいることのひとつが、器用貧乏ということです。 むかしからたいていのことは、それなりにできました。なんてじぶんで言うのは恥ずかしいことかもしれませんが、できたんです、たぶん。だから今こんなことを思うわけです。...
16日 6月 2019
むかし、サングラスをかけた軽妙な人柄の司会者が名物のバラエティ番組があった。その番組の中には、ゲストが次のゲストに声をかけて出演者が決まる(という演出の、あるいは本当にそうかもしれないが)トークコーナーがあった。...

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