10日 12月 2018
ちいさなライブハウスのステージに登ったり降りたりしている。僕のやるそのほとんどが、一回30分程度のステージである。3分~5分の曲を積み重ねて30分間を構成すると、一回のステージでやれる曲は多くて7曲だ。...
09日 12月 2018
こちらに目を向けてくれている存在のことは、信じてみたくなる。反対に、こちらが目を向けているのを感じ取った人は、逆にこちらのことを信じてみたくなるのかもしれない。...
08日 12月 2018
おなじことをテーマにした発信を、繰り返すことがあると思う。 その都度、そのときの切り口、言い方、取り上げ方といった表現が違えば、同じことをテーマにした発信が何度あっても良いと思う。それだけ、そのテーマは繰り返し扱うべき重要なものなのだろう。...
07日 12月 2018
ツールは、考え・アイディアの実現のためにある。「買ったけど弾かない、高いギター」は、もはやツールでもなく、ただの置物だ。たとえかき鳴らしたとしても、なんのアイディアや考えもなしに鳴らされる音は、きっとただの雑音でしかない。発想の実現のためにギターというツールがある。そのツールを用いる人間の発想を、出力する媒体なのだ。...
06日 12月 2018
憎しみ、呪いの成就は幸福か。 憎しみ、敵討ちみたいなものを人生の目的にしたとしたら、それを達成したときにその人物も自死してしまうのではないか……というような顛末が目に浮かぶ。フィクションの見過ぎかもしれない(そんなに見たつもりもないが)。 いつも、みんな大好き! 的なふるまいをする人がいたとしたら、うそつけ!...
05日 12月 2018
「しょうがない」は、それ以上どうにもしようがない、ということだろうか? だとしたら、かなりなるようになっている状態なのだともいえそうだ。手詰まり状態ともいえる。引き返せるのなら、そうするしかないだろう。それもできないから、「しょうがない」というのだろうか。...
04日 12月 2018
名は体をなす、なんて言います。いや、僕はあんまり言いませんから、「聞きます」。 僕の好きなある小説家は、タイトルをつけてから作品を書き始めるらしいです。 いまある言葉でふさわしいものがないとき、新しいことば(名前)がつくられるのでしょう。...
03日 12月 2018
平凡な僕である。才能のようなものがあるかもしれないし、ないかもしれない。自分でもよくわからないし、決めつけたくもない。平凡でありつつも、その平凡に少しだけなにかを課すことで、愚直に進歩しているようにも思う。ナメクジやカタツムリみたいなイメージだ。もちろん、ナメクジさんやカタツムリさんにはとうてい敵わない程度のものかもしれなくて、その場合はおこがましくて申し訳なく思う。 努力も、まったく同じことを続けているうちに、努力でなくなってしまうかもしれない。表面上はまったく同じようにみえる行動や行為が、ある時期には努力やチャレンジとみなせたものが、別の時期(しばらく経ったのち)には、とても努力やチャレンジとはみなせない、ということがあると思う。(たとえが的確でないかもしれないが、)たとえば、2歳の幼児がひとりでじぶんの歯を丁寧に磨くことは、努力やチャレンジといっていいかもしれない。 同じことを、32歳がやったらどうだろう。きっと、誰もほめてくれない。ほめてもらうために歯を磨くわけではないから、なんら問題はないけれど。 特定の誰かを思い浮かべつつ、それが誰とは限定せずに不特定多数に対して発信したことが、その特定の人以外に「これはわたしに向けられたものだ(わたしのことだ)!」と受け止められることがあるようだ。 「『わたしのこと、ラジオでしゃべらないでくださいよ!』と苦情を言われたけれど、その人のことをしゃべったつもりはないんだけどなぁ……」 というようなことを、ラジオに出演中のあるパーソナリティが話しているのを聞いたことがある。あいにく僕は、そのことに共感するのに十分なほどの経験を持ち合わせていないのだけれど、そういうものなのだろうなぁ……という程度には心中お察しする。 逆に、「特定の誰かだけに宛てられたアウトプット」を考えてみる。 ・職場の同僚の机に貼り付けたふせん紙に書きつけた、連絡事項 ・妻へのLINE「◯◯時に帰ります」 ……これくらいしか思い浮かばない。いかにも事務的である。もしくは、限りなく「フロー系」(そのとき限り)なものばかりだ。いかに僕が、自分の「気持ち」的なことを、「特定の誰かのみ」に発信していないかがわかる。 「特定の誰かのみ」に向けられたものの内容が感情的なものだと、とっても重いかもしれない。内容次第では、その特定の相手と自分のあいだの今後の関係を、大きく左右するだろう。 ラブレターは、集団や広い範囲に対しても書くことができる。ただ、ある程度その範囲が客観的に特定可能なものでないと、ラブレターとしての機能を果たさない(伝わらない)可能性が高い。「大自然さん、今日も恵みをありがとう。愛してます」は、いろんな意味で難がある……かもしれない。いや、むしろ良いかもしれないが。 読んだり読まなかったりしてオーケー、といった具合に、受け手側に「あそび(余裕)」をもたせてやること自体に「愛」がこもると僕は考えている。その前提のもとに僕自身、いろんなものを発したり受け取ったりしているつもりだ。「つもり」なんてつもりも、ないのだけれど。 こうして言えることはすべて、すでに起きたことに対しての分析でしかない。だから、今を尊く思うのかもしれない。 読んでくださり、ありがとうございます。
02日 12月 2018
規則性や秩序に、人間はここちよさや安心を感じるのかもしれない。音楽においてテンポがキープされることは、前の拍から次の拍までの間隔が一定で、その繰り返しが呈されることよって成立する。おそらく人間は、3~4拍聴いただけで、テンポが一定かどうかをすぐさま判断し、安心や安定、ここちよさといった感覚を抱くのではないかと私は思う。...
01日 12月 2018
何気ない行動が、社会のならわしに従ったおこないが、深く深く(過剰に)解釈すると、なんらかの差別に取れなくもない。 うまい例えができないのだけれども、たとえば、公共の乗り物の中において、ほかの人に席を譲った人がいるとする。席を譲られた人は、座りたいと願っていたとしたら、嬉しいだろう。単純に、やさしさやおもいやりが成就したことになる。...

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