商売のことを真剣に考えてやることは、誠意だと思う。商売にならない、つまりだれも喜ばないことをやるのは、エゴだ。そして、ぼくはこれをなかなか捨てきれない。
美しい言葉で言い換えて煙幕を張るならば、それは「プライド」かもしれない。
プライドは、美しい。たぶんそうだ。でも、それはほんもののプライドが美しいのだ。
ぼくは、よくプライドをはき違える。誤解している。今もそうかもしれない。
でも、ぼくがプライドだと思っていることのぜんぶが嘘とも思わない。部分的に美しいところもあるし、守るべきところがあると思う。それはきっと嘘じゃない。
じぶんがよろこぶことは、大事にしなけりゃならない。でも、人を悲しませちゃいけない。傷つけるのは、もっといけない。
それは悲しむところじゃないのに、思い込みで悲しんでしまったり、深層的な意識にエゴがあって悲しんでいるふりをしてしまうことがぼくにはあるだろう。きっと、ぼくの身のまわりの人や、ぼくと出会ったことのない人たちのなかにも、そういうことがたまにあるんじゃないかと思う。
プライドはやっかいだ。捨ててもいけない。まっすぐ向き合わなきゃいけない。ぼくは、プライドにしてあげることがあるし、プライドもぼくに返してくれるだろう。
そうしたことと、お商売は、ぶつからない。だれかがよろこぶこととプライドは、共鳴するはずだ。
なにか思わぬものが、響きのさまたげになる場合があるだろう。それが何かは、ケースによってさまざまなのだ。
響きに対する感度を磨くこと。
それをぼくはいつも命じている。
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