ほかの人のことなら見えるのに、じぶんのこととなるとよく見えません。
そりゃあ鏡なんかを見れば見られるのですが、いつも鏡を見ているわけにもいきません。
じぶんを撮影した映像なんかを見ると「ああ、じふんはこんなふうに他人の目に映るのか」と、意外に思えることがあるでしょう。そうした映像なんかを見て「うわ、(じぶん)かっこ悪っ」なんて思ったことが何度もある気がします。
鏡を見る
映像を見る
日記を見る
音声を聞く
じぶんを省みる素材にできるものはいろいろあって、そうしたものを利用しない手はないでしょう。
人の姿にじぶんを見出すこともあって「うわぁ、なんかじぶんを見ているようで痛いなぁ、気をつけよう」というようなこともあれば「なんかじぶんを見ているようだ。共感できるなぁ。この人とは仲良くできるかも」なんてこともあるでしょう。
人と話したり、他人の発したものを通して、気づきを得ることがあります。
じぶんが記録したり書き残したりしたものをとおして気づきが得られることもあります。
じぶんが何かを発することをとおして、その体験のさなかにおいて何かに気づくことも多々あります。
明日からはこうしよう。いや、今からすぐにでも!
と気づくことが日々ありますが、そうした気づきがすぐに影をひそめてしまうのです。
だけれど、そうした発見と忘却も繰り返していると「あ、これは前にも気づいて忘れていたけれど、いま思い出せた!」ということがあります。そういうときは、なんといいますかまた会えてほんとうに良かったなぁと思えます。
じぶんも捨てたもんじゃない、ってね。
好きなもの、大事にしたいもの、気づきを得られるものとの再会は嬉しいことです。
そうしたものたちと新しく出あうことは幸せです。
鏡を見ればいつでもじぶんと再会できるわけですが、きょうは顔色がわるいなぁとか、こんなところにふきでものができている! とか、他のだれもが気づかないようなことに、じぶんだけが気づけるのは、毎日再会を果たしているなのからかもしれません。
なんだ、わたし、じぶんのことよく見えてるじゃないの。
お読みいただき、ありがとうございます。