困ったときの答えが似てしまうってどういうことか?
困ったことが起きたのをきっかけに、それまでのものをやめてしまうのも手だ。これぞ機会と、別のものに替えてしまうのだ。あるいは、もうなんとかするのをあきらめてその場を立ち去る手もある。
困ったこと、という認識そのものがおかしいかもしれない。
僕には息子がいる。彼は保育園に通っている。保育園から、さまざまな子育てに関する知識や情報が僕に入ってくる。
あるとき、保育園が関わっておこなわれたある講座の事後報告を耳にした。それによれば「子どものおこないのほとんどが、適切である」とのことである。
確かにそうだなぁと思う。子どもたちの行動や言動の中で、親が不快になったり不適切と思ったりするものには、親が勝手に自分の都合で「それはやめてほしい」と思っていることがいかに多いことか。子どもにしてみれば、自然な流れでおこなったことかもしれない。
あることを、問題視する。困りごととする。不適切なこととする。それは、ほんとうに正しいか。正か不正か以外の軸はないか。おのれの価値観を、押し付けてはいないか。
おのれの価値観を感じて、かたちを認識するのは大事だ。それを、ゆさぶれ。ことあるごとに、見直せ。あることを問題視したり、何かに困ったり悩んだりしたときこそ、それはおのれの価値観をアップデートするチャンスなのである。
自分の価値観を、ちいさないれもののなかに閉じ込めて不自由な思いをしていないか。
こころが大きくなるにつれて、こころのいれものの引越しが必要だ。建て替えが要るようになる。リノベーションくらいでもいいかもしれない。天井なんかぶち壊せ。壁なんて抜いちまえ。もっといろいろ、見えるようになる。風通しもよくなるだろう。自分は、狭い。世界は、広い。自分を、ひろげよう。
あの駅もこの駅も、再開発されて似たようになる。そういう景色が欲しいと申し出たおぼえはない。でも、やめてくれと強く声をあげた僕でもない。だから、文句も言わずにこの街といういれものにおさまっている。
たまには、このいれものが今の自分にあっているか、見直してみよう。まだまだ広くて余裕があるか。狭くてこころを縛っていないか。
空を見た。曇っている。青さのかけらもない。青く晴れ渡った空が「いいもの」だなんて、誰が決めたのか。今日の空模様もまた、僕にお似合いだ。
お読みいただき、ありがとうございます。