自分が何者かなんてことは、結局他人が決めることなのかもしれません。
「自分」であり続けた結果、誰かが呼ぶ「わたしの名前」。それがときに、中島みゆきか、郷ひろみか、ボブ・ディランか、ミック・ジャガーかは知りません。どこまでも、誰にもなろうとしない。その結果、かれらについたそれぞれの名前なのかななんて思います。
僕ががんばってミック・ジャガーになろうとしても、ミック・ジャガーの場所にはミック・ジャガーがいます。なるべくミック・ジャガーの近くにいって、ミック・ジャガーの見ている世界と近いものを見ることはできるかもしれないけれど、それもできないから、いまこうしてここにいるのでしょう。
ミック・ジャガーと自分を比べて落ち込んででも、ミック・ジャガーに近づきたいというのであれば、僕は好きなだけ落ち込めばいい。
幸い(かどうかわかりませんが)、僕にはミック・ジャガーに近づこうとして自分の人生を費やすのはあまりにもったいないと思えるような価値観が備わっているのを自覚しています。
僕は青沼詩郎といいます。
とりあえずそう名乗っているし、他の人からもそう呼ばれることがちらほらあります。
僕が青沼詩郎になろうとしたら、過去の自分を目指すことになってしまう。もしくは、思い込みによる虚像の青沼詩郎を目指して、人生を費やしてしまうかもしれない。
何者かになろうとするのをどこまでもやめてみた先に、なるべくしてなる自分がいるのでしょうか。
できれば僕はミック・ジャガーにはなりたくないし、自分の知っている青沼詩郎にもなりたくありません。
「青沼詩郎」、やめます。
「自分」、はじめました。
たどり着く先が「青沼詩郎」がどうかは、他人が決めればいいことです。
自意識過剰、でしょうか…?