「そのものらしさ」みたいなものを、「シズル感」というらしい。
デザインやら広告やらの業界の人が使う言葉だそうだ。ぼくは自分の口に出して言ってみたことは一度もない。
そのものらしいというのはどういうことか、ひとりひとりが持っているだろうし、それらの合算である集合体としても「そのものらしさ」とはどういうものかがあるようである。
「シズル感」の話を逸れるかもしれないが、その人らしさってなんだろう。
人じゃなくても構わない。犬や猫やら、牛や馬でもいい。虫でも魚でもいいんだけれど。
その存在が、どうあるのが幸せか。
魚は水の中にいないとたいてい死んでしまうから、陸にあげられた魚は不幸せだろうか。
死んでしまうことを不幸だといえるのは、生きているものだけである。
死んでしまったら、当のものは「ああ、不幸せだなぁ」とか「逝けて幸せだ」と思うことすらできない。死んでみたことがないのでわからないが、たぶんそうだ。
生きているうちは、自分が幸せかどうか、自分が決めることができる。自己評価できる状態にあること自体が幸せだというひともいるかもしれない。きょう、あす、生きるか死ぬかの瀬戸際で暮らしていて、自分が幸せかどうかなんて考える余裕もないものがあったとして、そのものは不幸だろうか。そのものを不幸たらしめているのは、第三者であるように思う。瀬戸際のそのもの自身も、自分で考える余裕などなく、第三者がそう定義づけるから自分でも幸か不幸かを問われた際にはこう答えるかもしれない。「不幸せである」と。
ぼくは、ぼくらしく生きられているだろうか。
ぼくは、ぼくらしく死ねるだろうか。
ぼくらしいとは、どういうことか。
ぼくは、幸せか。
幸せとは、どういうことか。
どっちでもかまわないと思うぼくがいる。
「らしさ」も「幸せ」も、ある定義による言葉でしかないから、と。
なんとなく、死んでいるよりは生きているほうがいいとか、不幸よりは幸いのほうがいいとか、漠然と思い込んでしまいがちなのは人間の癖かもしれない。
生きているというのは、秩序だ。
とくべつな状態である。
ちっちゃなちっちゃな、もととなるものがあつまって、「ぼく」になっている。
いまだけの、おはなしです。