今すぐ乾杯でもして、「こんな人生だった」なんて、心の友達と朝から酒を飲み交わすような日が訪れたりするんだろうか。
この世のものとは思えないほどハッピーで、すべてがあるようでいてなにもないような境地である。
僕は朝にちょっとしたコラムを読んで、思いついたことを文にしてみたりしている。
それを始めて、まだ半年にも満たない。
モノ書きを仕事にしている人は、それ以上のことを10年、20年と毎日やってのけている。
そんな人生のとある先輩が、若いときに近所で流行したというせりふを紹介していた。
「いろんなやつがいた。いいやつもいた。わるいやつもいた。そういう人生だった。」
これを、さも大物スターのような口ぶりで言ったんだそうだ。
無邪気にこういう言葉を紹介できる純真さには、ただ感服するばかりである。重さも軽さもないこどものような心に、率直に笑みがこぼれる。
こどもが放つ言葉は、微笑ましい。
さもたくさんの経験を持ち、長い人生を切り抜けてきた人が言うかのような言葉から質量みたいなものをごっそり骨抜きにして、あっけらかんと大人みたいなことを言い放つ。
「あーあ」のひとことでも、かなり笑える。
笑ってくれる大人を見て、こどもも楽しくなっていろいろと話すようになるのかもしれない。
よろこぶ人を見ると、繰り返しそれをやってみたくなるのは、大人も一緒だろう。
飽きられてくると反応も薄くなるから、手を変え足を変え色々と試し始める。
これも大人も一緒だ。
こどもがやることも大人がやることも、なんら違いはない。
こうしたら、こうなった。
それだけの話なのだけれど、大人になるとそれにともなって、
「こうしたら、こうなる」
という決めつけが増えていってしまう。
同一の「こうだ」と思っていることでも、厳密な違いは多分に含まれていて、あのときやった「こう」と、これからやらんとする「こう」は必ずしも同じ結果をもたらさない。
その厳密な違いをわかるようになることが、ほんとうに大人になるということなのかもしれない。
「いろんなことをやった。いいこともしたし、わるいこともした。そういう人生だった。」
今の僕がこれを言ったら、おかしくて笑えるだろうか。
恥ずかしくてとてもそんなことは言えないようにも思う。
だとしたら、僕はまだまだ、こどもになれていない大人なのかもしれない。