漫画に用いられる、効果線という表現。
目に見えないものや、さわれないものを表現したり、読む人の視点を誘導したりする。
静止画の面上に、動きを演出する技法でもある。
止まっている絵の中に、速度を表現できる。
注目させたい対象物に向かって、複数の線を描くことによって、見てもらう部分を絞ったりもできる。見てもらう部分を絞ると、すみやかに次のコマに読み進むことができ、ほんとうにスピード感が生まれたりする。静止画の描かれた紙の束とともに、現実の時間の流れを体験することができるのだ。
目に見えなくても、さわれなくても、存在するものがある。
エネルギーって、不思議だ。
虫めがねで太陽の光をあつめて、黒い紙に焦点を合わせれば焦げてしまう。
カンカン照りの太陽の下にいれば、あつい。
肌がヒリヒリしたり、汗が吹き出る。
光のもつエネルギーが物体を熱くさせるようだけど、光そのものにはなかなかさわれない。(さわっているのかもしれないが、実感できない。なぜだろうか?)
水力発電だって、高いところから落ちる水によって水車を回し、発電をするわけだけど、流れ落ちる水にはさわれても、エネルギーそのものにはさわれない。
滝に打たれれば、からだにバチバチと当たって弾ける水を感じることになるけれど、それはエネルギーにさわっていることになるのだろうか。
滝の水に打たれるだけで済む程度のエネルギー量だからそう思うのか。
水圧で金属なんかが切断できるカッターがあるという。
エネルギーによって、元に戻らないような損傷を受けたら、ようやく「エネルギーにさわった」気にならないでもない。
虫めがねでだって、太陽光の焦点をじぶんの手に当てたらやけどするかもしれない。
やけどしたら何週かすれば治るけれど、その場で元に戻りはしない。
それをもって「エネルギーにさわった」といえるだろうか。
それもどこか腑に落ちない。
流れ落ちる水も、水が回す水車も、虫めがねによって焦げて物体そのものが変質する様子は見えるけれど、エネルギーそのものはどこにいる?目で見て区別できるだろうか。「いま見えている視界の中の、この部分がエネルギーです」と。
光は見えるけれど、光の持つエネルギーそのものを見ているわけではないのでは?
光にはいろんな波長のものがあって、その波長を感じ取って、僕らはものを見ている。
波長によって僕らのからだの中でなんかしらの信号が脳に送られるのだとしたら、その「信号」となる物質がからだの中をほとばしる触感が、「光のさわりごこち」だろうか。
音だったら、音波である。空気の圧力の変化によって、鼓膜が振動する(僕らの肉体の一部だ。)鼓膜を振動させるエネルギーが、「鼓膜(あるいは身体全体)が振動する」という結果によって存在を認知できるわけだけど、それが「音のさわりごこち」だろうか。
さわったり見たりできないもの。
けれど、あるもの。
とあるやり方では確認できないことが、別のやり方によって認知できることもある。
「紙の上の描写」という条件下で、あらゆる表現を追求する漫画の世界に、現実を感じさせる効果線を僕は見た。