好きなことを仕事にすべきか、と問うてみる。
得意なことや向いていることと、好きかどうかは必ずしも一致しない。
だから、好きなことを仕事にすべきかどうかは、場合による。
好きなことと、得意だったり向いていたりすることが一致する人もいる。稀だとは思うけど。
好きなことと思っていることでも、なかなか時間を作って取り組むことができないことがある。時間を割こうと思えば割けるのに、他のことに流れてしまうようなことがある。
つらいなあ、したくないなぁ、と思うことほど、えいや!とその場で取り組めてしまったりする。今すぐこの心労のもとを取り除いてやろうとか、同じくこのことを疎ましく思っている人のためになろう、という心理がはたらくのかもしれない。
「仕事ではない好きなこと」は、ただちにやらなくても誰にも迷惑がかからない。ビジネスとしてスケジューリングされた締め切りを待っている先方の存在もない。
ついつい自分を心理的に圧迫するものを先に片付けてしまう行為が、優先順位「高」に浮上しがちだ。
そうやって後回しになっている「自分が好き」と思っているものごとに対して、ときおり本当に好きでやっているのだろうかという疑問がわくこともある。
後回しにされ続けるうちに、いつの間にか「やりたい」が「やらなきゃ」に変質してしまう。
結局大事なのは、「やる」か「やらない」かでしかない。(厳密には、「やる」と「やらない」の間には無限の段階があって、どこからを「やっている」とし、どこからを「やっていない」とするかの区別は難しい)
好きか嫌いか。
得意か苦手か。
向いているか向いていないか。
これらは評価でしかない。
評価はこれまでを見直し、これからに活かすためのものだ。
活かさないのであれば、評価そのものが必要ない。
義務の反対はなんだろう。
遊びだろうか。
遊びは、やってもやらなくてもいいものかのように捉えられがちだ。
遊びたいときにいつでも遊べる状況は、望ましいものに思える。
望ましい状況を目指そうとする中で、ときおり遊びも「やらなくちゃいけないこと」かのような勘違いが起こることがある。義務になってしまったら、遊びとは言いがたい。
いつでも遊べる状況が尊ばれるほどに、遊びが他のものと勘違いされやすくなる。
遊びは自由なものだ。
自由なものすべてが遊びというわけではない。
仕事の最中だって、遊べないわけじゃない。
遊びと仕事の区別がないんじゃないかと思えるような生き方をしている人を見ると、率直にうらやましいなと思う。
自分も、そうなれたらいいなとも思う。
それを目指す過程で、勘違いが起きないように、なるべく他人の目を持っていたい。
他人のことをよく見ている人ほど、他人からも見られている。
そんな人は、たくさんの目を持っているのと変わらない。
自分の目も他人の目も、独り占めすることなく共有している。
たくさん目があって、みんなでいろんなものを見られるなんて、理想的な世界だと僕は思う。