「あれからもう6年」だとか、「まだ6年」だとかいう。
6年間であることには変わりはない。
「もう」や「まだ」には、言葉を発した人の主観的な想いが込められている。
話題の対象にしようとしているものと、その人がどんな風に関わってきたかということに対する主観的な感じ方が、「もう」や「まだ」に表れる。
たまにしか会わない親戚なんかは、親族の子供に対して「もう中学生」「もう高校生」「(もう)こんなに大きくなって」を会うたびに呪文のように繰り返す。
身近でその子の成長を毎日見てきた親にとっては、毎日の小さな変化の積み重ねの結果を第三者の目から突きつけられる貴重な機会といえるかもしれない。
親戚たちの嘆きを受けて、親は「そうですねぇ」なんて相槌を打ちながら内心思うのは、はたして「まだ」なのか「もう」なのか、「やっと」なのか「ようやく」なのか。
一連のものごとを近くで見続けると、大局的な変化を見失いがちになる。
抜け出して離れて傍観するわけにもいかない渦中にいる人ほど、「もう」とか「まだ」とか、自分の主観で好き勝手色んなことをいう他人の意見を参考にすべきなのかもしれない。
渦中にいると、どうしても個人的な感情が入り混じる。本来分け隔てて考えたり捉えたりすべきことが、いっしょくたになってしまったりする。
絵の具は色ごとにチューブに入って売られている。そこから無限の色彩を生み出せる。
手当たり次第、見境なしに色んな色を混ぜていったら、みるみるうちに濁った暗色が出来るだろう。
ごちゃ混ぜになった暗色を、必死な思いで抽出、分離を繰り返し、ひとつひとつのチューブに分けて注ぎ直した人にとっての、「まだ6年」。
目の前に急に、整然と分けられた色とりどりのチューブが現れたわけではない。限られた観測点しか持たない人は、「いつの間にきれいになって」と感じるかもしれない。
絵の具を揃えたら、絵を描くだろう。
描き始めれば、必要な色がまだ揃っていないことに気付きもする。
描き始めるのに、「もう」はない。
ヨーイドンで始まる人生などない。
待っても鳴らない、始業のチャイム。
待たずに始めるか、
自分で鳴らしに行くかのどっちかだ。