歳をとると、老化する。
老化がはじまると、それまで出来ていたことができなくなることがある。
高齢者が日常生活の動作の中で事故を起こし怪我をするといった事例を頻繁に聞く。
なにかで亡くなった方のニュースでその年齢を知って、「やっぱり(ご高齢)か」と思うことばかりである。
天災であることも多いし、自転車事故なんかでの落命もほんとうによく聞く。
避けられる反射神経を持ち合わせていなかったのだろう。
あたりまえにやってきたことをあたりまえに続けているだけでは、やがて老化して出来なくなる日が来るようである。
入浴だとかわずかな段差の昇り降りだとか、ごく自然に毎日の動作に含まれているはずのことでも事故が起こる。
自然な頻度でそれを続けているだけでは、衰える速さに抗えないということなのだろう。
高齢で亡くなるまで現役で活躍し続けるピアニストなんかも確かにいるようで、そういった人は特別な努力をしている。
日常生活に自然に含まれる度合いを超えたところでの営みを、最後の最後まで続けたのだろう。
そのピアニストにとってはピアノを弾くことが、食事のために匙を持つくらいの自然なことの一部になっていたのだろうとも思う。匙の上に乗せて口に運ぶ糧を、ピアノを弾くことによって調達するという現役意識みたいなものも、老いに抗うのに一役買っていたかもしれない。
どんな難曲を弾きこなせても、階段の昇り降りはもう出来ない、なんて状態が人生の最後の方にはあったかもしれない。やれなくても生きていけるという動作から順番に、淘汰されていくのだろう。やれないと生きていけない行動は、やれなくなった時点で死んでしまうからだ。
人間は他者の生活を支援し合ったりするから、支援ありきでその人が生きていられるという状況も起こりうる。
重い障害を抱える人に寄り添って生きている人も多い。
誰かの支援によって生かされているとき、その支援者を含めてその人自身なのだとつくづく思う。支援者はもはやその人の一部なのだと。
今の僕も、あらゆる食糧をお金で買って生きている。誰かが作ってくれた、食糧として質の高いものを摂取して現状を保っている。
お金を稼いで、お金を出すことで食糧を得る循環がなくなったとき、31歳の自分の体力なら、野草を採るなり動き回るなりして食糧を確保し、ある程度生き延びることができるかななんて想像をする。
しかしそれも思い込み、過信かともすぐさま思い直す。支え合いの循環が途絶えた瞬間、思いのほか自分もあっけなく死んでしまうのではないか、と。
衛生的な水が得られなくなったら、どんなに若くて体力があろうと、3日やそこらで人間は死んでしまう。
自然を切り拓いたこの環境は、いとも簡単に致命的な打撃を受けてしまうような仕組みの上に成り立っている。普段はあまり目に触れないから実感がないが、普段目に触れないものばかりに頼りきって生きているのが僕らの都市の生活である。
大震災に遭遇して初めて、そのもろさを実感したりする。
特別な努力をおこない続けることを日常化しないことには、「あたりまえ」は煙のように簡単に立ち消える。