善悪の意識というのはたいしたものである。
そのものの価値を、その意識ひとつによって180°変えてしまう。
死ぬことを悪いことだとすれば、長生きが絶対的な善かのように語られるだろうし、死が崇高で憧れの存在かのように捉えれば、特攻兵として片道分の燃料を積んだ飛行機に乗ることが待ち遠しいなんて心理状態にもなる。
たばこを吸うことを肺がんと結びつけたりして、時に過剰に語られるようなこともあるようだけど、その人が肺がんで亡くなったとしても、それが喫煙によるものと断定することはできない。
全てが同じの2つのパラレルワールドを用意して、吸ったAさんと吸わなかったAさんの一生を比べたとしても断定はできないと思う。喫煙の有無以外はすべて同じ、なんてありえないからだ。喫煙行為の有無だけに限って差し引きするなんてことは、まぼろしみたいなものである。
とある物質を投与したマウスとそうでないマウスを用意して、観察される過程から結論を導いたりする検証が実際にあると思うが、結局それはマウスの実験を通して得られた事実があるというだけだ。
どういった方法によって関連が証明された結論なのかということを広く知られることなく、その末尾だけが出回って独り歩きして宣教をおこない、信者を増やしているような状況が、ことにこの国の中では多いような気がしてならない。
さすが絶対神を持たない、やおよろずの神の国だななんて思う。矛盾したいくつものことを同時に信じていたりすることがあることを知って、驚くような事実がたくさん埋もれているように思う。
喫煙による健康面での利害を純粋な秤にかけて裁くようなことはできない。
副流煙に代表されるような、その人の自由だけでは語れないものも多くある。
というか、俺の勝手、私の自由で済むようなことは、突き詰めていえば存在しない。
間接的な影響がどんなもの同士にだってある。
その影響の大小によって決まるものが、善悪だったりする。
善悪とはたいそうなもののようにも思えたが、なあんだ、たかが人間の下したひとつの評価にすぎないのだなと、ふと思う。
捉え方ひとつで反転するようなものを、たいそうなもののように思いがちであるということ。