頼られると、うれしい。
みんな、自分ひとりの力では生きていけない。
いや、いけるかもしれないが、今のこの国のしくみはあまりそうなっていないように思う。
自分がそこまでできないことは、別のことで労力を注いで、お金を払って、まかなってもらっている。
大きな規模でたくさんの人をいっぺんにまかなった方が効率が良いことは、みんなで少しずつお金を出し合ったり負担をして、みんなでその利益にあやかっている。
公共事業なんかは特にそういった性質が強い。
でも中には自分との関係がうすいように思われることがあったりして、そういった事業に対して税金のムダ使いだなんて声がよく上がる。
反面、みんなで割って少しずつ負担することで成り立っている支えを、ひと握りの人が中心になって受けているような現状もある。
社会保障や福祉のしくみなんかがそうだろう。
誰かに頼られるのはうれしいものである。
あなたがいなければ、私は自分の現状を保つことができませんよと。
そう素直に表現されると、こちらもまんざらではない気持ちになる。
一方的かもしれなくても、労力やお金を割いて相手のために何かしてやることが、まっとうな人の道かのように思えてくる。
子供やペットが、生活の支えを受けるための根回しとしてそうした愛嬌を見せているとは考えにくい。
なんの打算もなく彼らはそうした仕草を見せてくる。
そうして頼られた方は、打算もなにもなく支え続けることを惜しまない。
そんなふうになれる。
母性か父性か、なんなのか。
このか弱い存在を支えることが、自分たちの未来にとって有益であることを、論理的思考を超越したところで理解しているんだろうか。
そういったものを僕たちはとりあえず、本能と呼ぶのかもしれない。